子宮筋腫体験記(5)家族の反応
病院を出て家路を急ぎながら、次に行く病院をどうやって探そうか、そればかり考えていました。街路樹も、集団で歩く学生たちもまったく目に入りませんでした。
家についたら夕方になっていました。病院を出てから電車に乗って家につくまでの記憶がありません。リビングの窓からはいつもと変わらない景色が見えました。どこまでも続くコンクリートのマンションが、オレンジ色の光に包まれていました。
何をしても落ち着かず、リビングをうろうろしました。
今母に電話をしたら泣いてしまいそうでした。心配をかけてしまうと思うと、電話はできませんでした。
妹にだったら思いのたけを話せると思って電話をしたけれど、出ませんでした。
日中の輝きを失いつつある空を眺めながら、わたしはひとりで号泣しました。
おんおんと、むせぶように大きな声を出して泣いたら、気持ちが落ち着いてきました。そして、子宮をとることの喪失感に耐えられるような気がしてきたのです。
48歳になるまで、大病もせずに来られたことをありがたく思うべきだ。悪くなったところはさっさと切って、生きられるところまで生きればいいんだ。そういう風に思えたのでした。
空が真っ黒に暮れた頃、大学生の長女が帰ってきました。今日は病院に行くといっていたので、そのことを思い出したらしいです。わたしの尋常ではない様子に、かすかに緊張したようですが、なにもいわずにそばに立ちました。
「手術するようにいわれたから。念のためにもう一軒ほかの病院に行くことにする」
わたしはむっつりと報告しました。どんな顔をしたらいいのかわからなかったし、さっき、かなり泣いたから、気持ちは空っぽでした。
「お母さんのMRI見る?」
そういうと、長女の真理は無言で大きな封筒からフィルムをとりだして、眺めました。今日診察室でいわれたことを説明すると「うん」と軽くうなずいた。そのまま自分の部屋に行き、ぱたりとドアを閉めました。
真理の後ろ姿を見送ってから、今度は実家に電話をかけました。
「筋腫がいっぱいできていて、手術で子宮をとるといわれた」
そういうと、母は電話口で絶句しました。もう若くない娘のからだに傷がつくことを悲しんでくれました。
「とりあえず、他の病院にも行ってみるから。一つだけではわたしも決められないから」
ことさら明るく言うと、母は、
「そっちの結果もまた教えてほしい」と沈んだ声でいいました。
夜になってネットで、婦人科のHPで紹介されている病院と、その常勤医を調べました。最近の病院はそれぞれに特色を出しています。女医がたくさんいて、主に子宮内膜症の患者を診ている病院とか、患者の年齢にかかわらず、子宮を残す治療に取り組んでいる病院とか。ただの筋腫の治療なのに、検索すると医療機関や治療法はいくらでも出てきます。
そのうちに、夫が勤めから帰ってきました。手術が必要だといわれたと伝えると、怒りだしました。
「そんな、すぐに手術なんていう医者は信用できない。どうするつもりか」
と詰め寄られました。
「もう一つくらい病院に行ってみるつもりで探している」というと「すぐだな」などと、なおも脅すような口ぶりです。
夫は暴力もふるわないし、まじめに働いて生活を支えてくれます。
夫は、「自分は仕事と趣味で精いっぱい生きるし、妻は働いていないのだから、家のことは、家事もこどもの教育も全てやるべき」という考えの持ち主です。
我が家は夫は仕事、妻は家事という、完全分担制の夫婦です。とくに仲が悪いわけでもありませんが、わたしが病気になったことで、家事が滞る可能性が出てきましたから、この先どうするつもりだと文句をいうのです。
世の中には優しい夫という人もいるのでしょうが、わたしの夫は違います。もっとひどい人もいるらしいので、あまり気にしないことにしています。
2時間くらい探してやっと次に行く病院がきまり、ほっとして眠りにつきました。